素のままでおいしい、土と人と共生する野菜たち。そして種は社会を映し、人を映す。

up

000

素のままでおいしい、土と人と共生する野菜たち。そして種は社会を映し、人を映す。

取材・文:相馬夕輝

写真:峰岡 歩未

およそ15年ほど前に、自然農や自然栽培という存在のことをはじめて知りました。道の駅やファーマーズマーケットで顔写真がついていれば「顔が見える」としてもてはやされ、自然栽培の農家さんの野菜などはまだまだ見当たらない時代だったと思いますが、なんとなく、「有機栽培は良いものなのだろう」という認知が広がりつつある時代だったように思います。実際には、どういう有機栽培なのか、が肝心だと言うことはもう少し後になって気づいていったような、そんな時代でした。言葉だけが一人歩きしてしまわないためには、学ぶこと、実際に自分の目で見にいくこと、食べ比べて実感してみること、そう、実感や経験は本当に大事ですね。

定義の曖昧な栽培方法の狭間で、
社会はゆるやかに合理的な道を選んできた

自然栽培や有機栽培、慣行栽培という線引きも、明確な線引きがないというのも、分かりにくさを作ってしまっているように思います。

自分たちが全てを定義できるわけではないので、自分たちの見てきた経験で話をしていきますと、慣行栽培とは、いわゆる農薬や化学肥料を使いながら栽培される一般的な農法です。日本の99%以上が、この農法に取り組んでいます。主にはF1品種など、種を継ぐことを想定せず、形と収量が安定した種を購入して育て、一括で地域の農協に販売されます。価格は高くはないけれど、確実に売れることが担保できていて、手間がかからず、農家の仕事に専念できる面でとても効率が良い仕組みが出来上がっています。これは世界を見ても類を見ない流通システムで素晴らしいものです。合わせて、農協が持つ様々な資材供給、共済保険の加入、融資など、農家経営をするために必要なサポートは充実していることも特徴でしょう。種を買い、肥料を買い、融資も受ける。思った以上にコストの高い農業経営になることも多いです。その結果、やはり政府が推進する大規模農業、スマート農業などのような効率の良さをさらに重視した栽培によって、安定した収入を得ていくモデルを目指す構造になることが多いです。そしてそれを支えるための新たな機材投資をするけれど、そこに手厚い政府の補助金が行われてもいく。99%以上になる理由があります。

その結果、日本中のスーパーに安価に並ぶ、いつ行っても、夏でも冬でもきゅうりが食べられる社会ができあがります。どこでも同じ大きさ、同じ色、似たような価格で溢れていきます。誰がどう作ったのかは、もはや誰も気にせずに需要と供給が成立していく。物が満たされなかった時代からしたら、それは本当に豊かさを象徴とする姿でしょう。しかし、現代はもう、溢れすぎた物に溺れ始めている時代が始まっているとも思えます。裏返せば、安心なもの、顔が見えるようなものを、と残りの1%以下を探すと、家の近くでは手に入らずに、遠くから取り寄せないと手に入らない時代だとも言えるのです。それって本当に豊かなのでしょうか。不安に思うことがあります。ただ、この社会ができあがったのは、食べる人が選んできた社会でもあることを理解しておかなきゃいけないなと思います。誰かが悪いわけではなく、みんなで目指してしまった社会なのです。だとすれば、みんなで違う道を選ぶこともできるはず。そう思ってもいます。

ものが「ある」時代、溢れる時代に
求められる豊かさはどこにあるのか。

野菜のことを考える時、北海道の根室という土地を好きになり、3年くらいずっと通いながら生活していた時期を思い出します。街中には日本の最東端の土地なんてことが思えないくらい、あらゆるものが揃うスーパーがありました。当然、冬にもキュウリがありました。野菜はほとんどが道外のもの。道内のもの、季節のもの、を探すのが難しいくらい。こんなに遠い場所でも、いつでも同じものが年中揃っている世界を実現する日本人は、まったくもって、本当にすごいなと感心しつつ、しかしここから先の未来を感じにくいとも思えました。マイナスからプラスまでしかビジョンが描けない国民性なのかも知れない、、とも危惧してしまいます。「ない」時代にとって、「ある」ことは豊かです。しかし、「ある」時代の次にどうありたいかを考えると、「もっとある」は豊かさにつながらないと思います。そこには、マイナスからプラスへと盲目的に正しいと信じれる状況の中とは異なり、どう良いのか、美しいのか、役に立つのか、社会的な役割があるのか、おいしいのか、健康にいいのか、環境にいいのか、、、と量から質へ、質から環境を含めた社会性へと、有機的に繋がりあっていく社会としての価値観の底上げが求められていきます。

同じキュウリとて、どう考えてつくる、どう考えて買う、どう考えて食べる、足元の価値を見直して「考える」時代がきているように思うのです。

農業高校や農業大学など、学問として農業を学ぶことができる場所での基本は、慣行農業にあります。だからこそ、体系的な学びができるとも言えますが、多くの農業に関心のある若者が、慣行栽培をベースに農業を始めていくことにもなっていきます。しかし、修行をし、自分なりのやり方を試して独立し、その先に、多くの農薬使用によって、自分や家族、子供のアレルギーなどが発症して、このままでは農業を続けられないのでは、、と有機栽培や自然栽培へと切り替えた方たちにも多く出会ってきました。もちろん、農薬が全てそういった症状などを引き起こすわけではありません。体質にも寄るし、出荷時に無害であることは担保されている基準で、ちゃんと作られてもいます。

雲仙で種を継ぎ、種の物語を継ぐ
有機栽培農家・岩崎政利さん

雲仙で有機栽培で野菜を育てる、種継ぎ農家の第一人者として知られる、岩崎政利さんも、自身が身をもって体験した一人でした。農薬や肥料の利用や効果を体系的に学び、新たな農薬などへの挑戦もしながら、先進的な農家として、独立した農家としてのキャリアを重ねていったけれど、大病を患い、その原因として考えたのが農薬でした。そこで農薬との関係を断つ(断たざるを得ない)ことを決めたそうです。そして、自然と共生をしながら土壌を育てていく先に、その土壌とも共生する種の存在に気づき、結果的に、雲仙という土地に適した種を自ら継ぎながら、1年におよそ35種類ほどの野菜を種継ぎしている、誰もが知るような農家のひとりになります。およそ20年が、岩崎さんが、他の土地から来た種がその土地に適応してきたな、と感じる時間だそうです。効率性からは大きく離れ、とてもじっくり野菜に向き合う時間を要する仕事だけれど、時間をかけて変化するからこそ、その後も長くその土地に適応し、そして、環境の変化にも適応しながら育っていく野菜をつくることを可能にしていくのだと、岩崎さん野菜は教えてくれます。

土壌と作物との共生関係を弱めてしまう農薬と化学肥料

野菜は、太陽の力で光合成をしながら、土壌にある栄養を微生物から受け取って育ちます。土壌が良い状態、つまり、動物や植物、土中の微生物や細菌が豊かに循環しあっている状況が作れていると、植物にとって有益な栄養がしっかりと土の中に蓄えられ、そこから植物は栄養を豊かに吸収することができます。草や落ち葉、枯れ木、虫、動物、その排泄物も、多様な有機物が、多様な微生物や細菌たちによって分解され、土に還っていきます。農薬を使うことで、虫が寄りつかない状況や、除草剤で雑草が生えない状況をつくることは、未来に土をつくっていく微生物や栄養成分を減らしていくことになります。全体のつながりが分断された中で、足りない肥料成分を補うために、化学的に合成した肥料を補うと、人間の目線では足りない栄養素を補給することができているように実感しますが、自然の土壌の中で起きている循環から生まれている栄養素は、人間では想像もできないほど多様であることを考えると、そこには大きな違いが出てしまいます。農薬を使うことは、人の健康に害を及ぼすかと言われると、そうではない基準が徹底されていると思います。しかし、自然の多様性を弱めてしまうことだけは明確に言えると思っています。また、化学肥料はそのスピード感のある効果の反面、植物が自分で生きていく逞しさを失ってしまうことになることも明確に言える。慣行栽培は、なんだか過保護な子育てのようだと例えるとわかりやすいかもしれません。社会の荒波に耐えて生き抜いていける子供を育てることが、やはり親の命題ですよね。同じようなことに思うのです。

さて、話を、有機栽培や自然栽培はどんなものなのか、の話に進めます。それら二つの栽培に共通していることは、上にも書いたような農薬を使わないことです。そして、植物性も動物性も含めて、有機物からつくられた有機肥料を使用する栽培を有機栽培と呼び、畑や田んぼの外からその土地自体の外から有機物など肥料成分を持ち込まずに、その環境の中で生まれたものだけで循環して栽培をしているのが自然栽培です。(人によって捉え方は異なるので、Table to Farmでは、という注釈を入れておくようにします)

例えば、トマト栽培をしていて、トマトの収穫残渣を発酵堆肥として、同じ畑に戻すのは、何も持ち込んでいるわけではないので、自然栽培だとも言えるし、その発酵を促進するために有機物を他から補っていれば有機栽培になるし、少し窒素分が少ないので、鶏糞を少し土壌に入れてみるか、というのも有機栽培となる。有機栽培という言葉は、かなり範囲が広そうなことは想像してもらえると思う。

しかし、慣行だろうが有機だろうが、自然栽培だろうが、やっている根本のことは、その野菜が、土壌が、今どういう状態にあって、おいしく育てるために何が必要なのかを観察し、分析し、野菜が育つための環境づくりを人間がサポートしていくこと、という点では変わりません。それぞれの農家が選ぶ手段と選択肢によって、いく通りにも、ある意味無限に栽培方法はあると言えます。その土地に合った土や品種を見極めながら、農家が日々、自分なりの農法を選択し続けていく。それは、人の生き方のように、違いが生まれていくのです。それは、種を継ぎながらその土地の在来と呼ばれる作物により色濃く現れてくるとも言えます。

世界中を旅してその子孫を広げてきた、たくましい種たち

Table to Farmが日本各地から季節ごとに、毎週野菜を購入し、試食を重ねてきた中で、有機栽培以上で取り組まれているものを選ぶようになりました。お米は完全に自然栽培のものだけを選んでいるので、そこと少し基準に違いが生まれているのは、水田稲作と畑では環境や適応が異なるため。何千年も日本で稲作が根付き、その中で水が豊富な日本で育まれた水田稲作というのは、本当に素晴らしいシステムなのです。じゃあ、野菜も水田でやればいいじゃないか、というわけにはいきません。野菜は水田での栽培に向いているわけではありません。アンデス山脈の高原が起源とされるようなトマトが、今、日本で栽培されているわけなので、当然そもそもその品種が適応しやすい環境に近い状態を作ったほうがトマトの生育に良いのです。そのため、異なる場所で栽培しているギャップを、何某かで補填するか抜き出すか、サポートが必要になってくる。日本で、現在食べられている野菜の多くが、世界中からやってきた種たちです。そう、昔から日本に自生してきた野菜はそんなに多くはなく、セリ、フキ、茗荷、自然薯など。少し山に行ってどこに生えているかさえ理解すれば、生い茂っているものたちです。自然は本当にたくましい。蓮根は縄文時代に渡来し、大根や生姜は古墳時代に、蕪は奈良時代に、、、など日本の野菜だと思っていたようなものも、実はほとんどの種は世界中から渡ってきたものでもあります。

畑の中で、野菜が必要な栄養素がその中だけで循環して生み出されていく土づくりは簡単ではありません。例えば、トマト畑の中で、トマトの実を人間が収穫して外に持ち出していくとする。畑としては、茎や根っこはその土地に残り、そこにいる微生物たちが分解し、土に還っていったとしても、実の部分の栄養は、その土地から少しずつ足りなくなっていくことは想像できると思います。そこで何某かの有機物を補う必要が出てくるわけです。補う有機物として何を選ぶか、どのくらいの量を選ぶか、どのタイミングを選ぶか、と、様々な違いが生まれていく。

循環の中から栄養を得る野菜たちと
それを観察する農家の目

自然栽培の中では、豆科の作物や、豆科の緑肥を育てることで、豆科が持つ力の一つに、根粒菌によって土壌に窒素分を固定促進させる働きがある。そうすると、その後に育てる作物にとっては、窒素がたっぷり補充されている状況をつくることができる。動物性の堆肥においても、しっかりと発酵が進み、適切に管理されてつくられた堆肥であれば、土壌の中での分解は早く、即効性は高い。しかし、その量を見誤ると、過剰な堆肥分によって、むしろ腐りやすい野菜になったり、過剰な窒素分を吸った野菜を目掛けて虫が集まったり、さらには、水溶性の高さにより、土壌から近隣の川に浸み出して、地域の自然環境にも影響を与えてしまうこともある。何事も、その塩梅がとても大事になり、その見極めは農家の経験値に多くが依存する。

気候、雨量、土壌、種、、、毎年、全てが有機的に繋がりながら、可変的に変化を続ける状況の中で、日々そのバランスをみながら判断している農家の仕事は、都会で会社経営をしていることなんかより、ずっと変化に適応しながら経営判断を日々迫られるようだなと思えてしまいます。自然と向き合う難しさは、近年一層増しているようにも思います。

人の身体が求めるものを
野菜は季節に合わせて生み出してくれる

九州で自然栽培や有機栽培の在来作物などを紹介し、流通をされている金子商店の金子尚生さんに、先にも触れた、雲仙の岩崎さんのお野菜も含めて、九州で有機や自然栽培で育てられている在来野菜を中心とした野菜を、1年ほど試食用にお送りいただいてきました。同じ生産者の方のお野菜を2週間に1回程度、ずっと食べ続けていったりすると、これは岩崎さんのじゃないかな?とわかってくるようなおもしろさと共に、同じジャガイモと言えども、その野菜の持っている香りや風味がかなり違っていることがわかってくる。

まずは何より品種の違いは、大きな違いがある。ただ、それだけではなく、その土地がどういった土壌の性質を持っているかにも影響を受けているように思える。岩崎さんからいただいたジャガイモは、いつも素朴な甘さがあって、食感が少しねっとりとした質感がある。個体差もあるだろうけれど、少し時期が異なるとまた味わいも違ってきていたりと、2週間くらいのタームで少しずつ変化しているように思えました。黒田五寸ニンジンも、当然季節の違いは大きな違いがあり、秋冬は少し重心の低いようなほっくりとした味わいや、煮込んで甘さが引き立つような性質があったし、一方で春から夏にかけては、独特な清涼感のある香りがイキイキとしていて、ポリポリと生で食べたくなる気持ちに。火を入れるよりも生で食べたくなる。体が求めているものと、野菜が持っている特性も、なんだか共に補完し合い、共生している実感が湧いてくる気がしました。別にニンジンが人間の味覚を狙って味を出しているとは思わないけど、体の求めているものと反応しあっているのは、人間もまだ、自然の一部でもあると多少なりとも認めてもらって良いのかな、などと思い直させてくれる気がします。

まるで社会を映すような種たち

岩崎さんに直接お会いしに行った時、「野菜は人間社会と同じじゃないかな」とおっしゃっていたのを強く記憶している。たとえばどの母本の種を次の種継ぎように選ぶのか?と聞いた時、「良い母本だけを残せば良いかといえばそうでもなく、繊細な女性っぽさを持つものもあれば、たくましい男性っぽさを持つものも、それぞれの野菜にはあるけれど、偏らずにほどよく多様に残していくようにした方が、良いものが出てくることがわかった。しかも、次の年くらいにいきなり大器晩成型で王様みたいな風体でいきなり育って出てくるようなものもあったりする。人間と一緒だよね」と。

カラシナ系の植物がとにかくよく交雑しやすく、かつ逞しい。岩崎さんの農場の近くでも、車を走らせていくとそこかしこの路肩に半野生化しながら勝手に育っていた。こうやって種は生存戦略として、なるべく広がっていく習性があるのだなと思いつつ、一方で、だからこそ、農家がどういう種を継いで残していくのかも大切だと思えた。カラシナのように、逞しく自生し、先祖帰りして、野生化していけば、作物として人が食べるにはあまりにも強すぎるものや、風味が落ちるようなこともある。自然栽培や有機栽培は、土壌や微生物、もちろん機構や自然環境といかに共生し、その土地の地力を高めながら、その土壌に適応しながら野菜を育てていくことだけれど、あくまでも、「食べる」ことが前提にあり、野菜を育てる農家の暮らし、農家の事業として共にあるものでもある。だからこそ、やっぱりおいしくなければいけない。おいしいから食べるし、おいしいから売れるし、おいしいから継がれて残っていく。今ある全ての野菜も、やはり育てやすさや、その環境に適していることもさることながら、おいしいという淘汰の先に残ってきたものなのだ。種を継ぐことは、農家の考え方でもあり、同時に農家経営でもあり、その土地の農家が、その土地で継いでいる、生きている証のようでもある。

イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3

種を継ぐことは、種だけの話でない
農家の生き方であり、
農家と野菜が育んできた物語でもある

岩崎さんは、種継ぎという言葉に注目が集まっていることに少し危惧している言葉を残されていた。昔、岩崎さん自身も、種の交換をしていた時期もあったそうだが、今はしていない。京都で伝統野菜を育てている方に、それは違うと怒られたことがあるそうだ。京都の在来作物の種を育ててみた時、その素晴らしさとともに、種をただ広げればいいということではないぞ、と感じたのだそう。在来作物だから、貴重だから、守った方がいいから、だから、残した方がいいということじゃなく、種が今この種になっているのは、その農家がずっとその場所で継いできたことそのものと共にあることに意味があるので、だからこそ、在来作物の種は、過去だけが大事なのではなく、これからあなたが育てて、あなたの在来作物になっていく未来とも共にあることが大事なのだと思える。

F1品種だったとしても、種を継ぐことができる種もある。それをずっとその土地で続けて、そうやって、気候と、土壌と、馴染んで、もちろん、それを食べる人間も、こうやったらおいしい、と思える料理とも結びついて(それが、郷土料理そのものなのだな、、、)、農家や食べる人も結びついて共生されていくような野菜になったら、その起源のストーリーを踏まえつつも、もしかしたら、そこでその農家さんによる、その土地でつくる在来作物と言えるものが生まれていくのだろう。岩崎さんは、20年くらいでやっとその土地と適応してくるかな、とおっしゃっていた。種は守ることも大事だけれど、育てること、そこに自分で名前をつけるような野菜になっていくように、種を育てていくことは大事だろう。

身体がおいしいと感じる野菜の『素の味』

Table to Farmは、どれも、何も味付けをせずにおいしいと感動したものだけを野菜の『素の味』として選びました。『素材が良いと料理は簡単になる』ことが、『素の味』の役割とも言えると、最近は思うようにもなってきました。きっと、あの料理にはむしろこっちのナスじゃないと!と言うものはあるかもしれませんが、僕たちの野菜の最初の選び方は、素のままで何もしなくておいしい野菜たち。生で、焼くだけで、どれも本当においしいのです。そして、そんな野菜たちの背景には、その土地の土壌と共生するように育てている有機栽培や自然栽培の農家がいました。野菜の『素の味』は、自然と共生しながらつくる農家の、そのままでとびっきりおいしいものと定義してみています。さらに言うと、その中でその土地でずっと種を継ぎながら育てているような在来の野菜は、なおのこと、より自然との適応を深めておいしいものになっているとも、思うのでした。

ただ、やっぱり鮮度も大切です。オンラインでは不向きな野菜もあります。夏場に葉物の野菜は、やっぱりなかなか向かないのです。そこは現実的に、自分たちだけで全ての野菜をまかなうことよりも、家の近くのスーパーに並ぶ、季節の野菜と仲良く付き合っていくのも大事なことだと思います。慣行栽培が悪いのではないのです。それだけじゃなくていいと思える、僕たち自身の考えの多様性が、農家の多様性に繋がり、種の多様性と繋がっていく未来があることを、あらためて考えたいのです。

Product

八丈島オクラ(岩崎政利)

八丈島原産のオクラで、一般的な五角形のさやのオクラと異なり、丸いさやが特徴。全長15~20cmと大きいですが、柔らかく、甘みがあります。粘りが強いので、さっとゆでて刻んでおひたしやそうめんの薬味にしたり、天ぷらにすると独特の歯ごたえが楽しめます。縦に半分に切り、魚焼きグリルでちょっぴり焦げ目がつくぐらい焼いて、塩やしょうゆで食べると水分がほどよく残っていてみずみずしさに感激。豚バラ肉を巻いて焼いても、肉に負けない存在感です。

¥454

SEE MORE
Product

泉州絹皮水ナス(まえむき。ファーム)

大阪は泉州(堺市周辺)の伝統野菜で、晩生ナス。フルーティで果物のような甘みがあり、生で食べても美味しいと評判。「皮が薄く、水分が多いので、喉が渇いたら、生えている泉州絹皮水ナスをもいで水分補給するくらいみずみずしいんです」と和島さん。アクが少ない水ナスなので、皮付きのまま薄切りにし、わさび醤油でお刺身のようにも味わえます。

¥627

SEE MORE

Comments

preview article

Viewing 004/023articles

next article